やだんこ!

共通点があったりなかったりする者同士で更新するWeb同人誌です

リレー小説・きのこ

大きな蟹が山からやってきた。こんにちは、と挨拶をすると、こんにちは、と蟹も返した。なんのご用事ですか、と聞いたのは今年で30歳になるのに学ランを着ている涼平くんだった。この街を殲滅します、と蟹は答えた。それはちょっと勘弁して下さい、と言った涼平くんは一瞬で燃え尽きた。蟹光線だった。

 

涼平くんは、ファッションセンスにこそ問題があったけど、いい奴だった。とはいえ、感傷が心の中に渦巻く、ということもなかった。茫然としてしまって、蟹が、これから忙しくなるので、と言って去るまで立ち尽くしていた。なので、蟹博士と呼ばれるタキ爺のことを思い出したのも、しばらく後だった。

 

遠からず蟹が厄災を運んでくる、とタキ爺はことあるごとに語った。街では、蟹が貴重な資源や労働力だった。だから、なんて不吉なことを言うのだ、と人々から疎まれてしまうのも自然ななりゆきだった。蟹の研究に一生を費やしたのに研究所を追われたタキ爺のことは、街の外れの川辺ですぐ見つかった。

 

見つけたのも蟹だった。

川辺で石を運んでいた蟹たちが、生い茂る草の中に倒れているタキ爺を見つけた。とてつもなく臭く、ぼろぼろではあるが、どうやら生きているようだった。

涼平くんは蟹がタキ爺を見つけ、なにやら話し合い、数十匹がかりで運び出すのをぼんやりと見ていた。そして、街は順調に殲滅されつつあった。

あれ、俺、生きてるの?

そう思って自分の身体を見下ろした。

 

涼平くんの体はぷすぷすの燃えかすとなっていた。魂だけが残ったのだった。燃えかすのそばでは学ラン仲間の高橋くんがことの成り行きを見守っていた。高橋くんの学ランは紺色だった。高橋くんは涼平くんの黒い学ランをダサいと思っていた。

蟹たちは死にかけのタキ爺に人蟹呼吸を施し、蟹に改造するに違いなかった。

僕が動かねばなるまい、と高橋くんは思った。頑張れ高橋くん、と涼平くんは思った。しかし、この街はもうダメだろう。蟹が次々に建物を破壊していく様を見て、高橋くんは冷静に判断し、それから、栃木に行くことにした。蟹には猿だ。

 

蟹によって街の近くの交通網は麻痺していたが、たまたま乗り捨てられていた自転車を拝借して、1時間ほど漕いだ先はまだ被害が出ておらず、そこから電車に乗って栃木県は日光市に向かった。封印を解かねばなるまい。電車内で最後になるかもしれない駅弁を食べながら、高橋くんは思った。そう、見猿、言わ猿、聞か猿を解き放つつもりだったのだ。

 

高橋くんが日光の駅に着くと、タキ爺によく似た老人が出迎えた。老人は自らをマス爺と名乗り、タキ爺の双子の兄弟であると言った。

 

「タキ爺に兄弟がいたなんて」

「誰しも思いもよらない繋がりがあるんです」

「それよりなぜぼくを?」

「目覚めさせるおつもりでしょうから」

 

タキ爺は全てを分かっているように、駅前に止めていた車に高橋くんを招いた。日光駅に似つかわしくない高級車のドアがスムーズに開くと、そこにはひんやりとした空間があった。

 

「話は移動中にしましょう、さあ乗って」

 

車内でマス爺は語った。蟹のこと、タキ爺のこと、そして封印されし猿のことを。

 

一体どれだけスピードを出したのか、車はすぐに東照宮の前に着いた。マス爺は先に降りて、高橋くんを振り返ったが、ぐっ、と苦しそうな声を出して膝から崩れ落ちた。精液のような臭いが辺りに漂う。どうやら蟹の手先が先回りしていたようだ。鉄砲玉の栗が現れたのだ。

 

「なるほどね……もう臼と蜂と牛の糞も来てるのかな?」

 

高橋くんが尋ねても栗は黙ったままだった。どうやら隙を伺っているようだ。こんなところで時間を取られている場合ではない。高橋くんは足音も立てずに、栗との距離を詰める。

 

疾い! 栗が思ったその瞬間には高橋くんの輝く左手が、彼を貫いていた。

「悪いけど急いでいるんだ。マス爺も病院に連れていきたいし」

高橋くんは、返事を永久にしなくなった栗に向けて呟くと、背筋にゾクゾクとした感覚に気づいた。いつのまにか、臼と蜂の大群と大量の牛の糞に囲まれていた。

 

牛の糞特有のメタンガスを含んだ臭気が鼻をつく。

「これはあまり使いたくなかったんだけど……」

高橋くんの背後の空間がねじれる。それまで誰もいなかった空間に、ぼんやりと人にしてはあまりに細い、「何か」が浮かぶ。

「3対1。しかも相手は素人じゃないんだからいいよね!」

「何か」が高橋くんをかばうように前に出て、構える。蜂のぶーんという羽の音に重なるようになにかの振動音が聞こえ出した。

しばしのにらみ合いの後、蜂の大群が高橋くんに襲いかかってきた。それを「何か」が目にも留まらぬスピードで、叩き落としていく。先程と打って変わって高橋くんはポケットに両手を突っ込んで、その様子を眺めている。

黒い影のようだった蜂の大群は、次第に小さくなっていき、いつのまにか蜂の羽音は聞こえなくなっていた。高橋くんの「何か」が発する振動音だけが聞こえていた。

「漫画だったらここで決め台詞を言いたいところだけど……」

蜂の大群が完全に消滅したことを気にも留めず、臼と大量の牛の糞が、同時に高橋くんに飛びかかる。

 

高橋くんの声で、マス爺は目を覚ました。

「お、よかった。傷は意外に浅かったよ」

目を上げれば、汚れた学ランの高橋くんが笑っていた。

「ぼくは先に行くよ、マス爺は車の中で休むといい」

「しかし、わたしも……」

「思ったよりも敵が手強い。マス爺を守りながら戦うのは難しいんだ」

マス爺は自分の無力さを呪った。しかし、高橋くんの言ったことは事実だ。

「三猿が居れば、街を蟹から守れる。一刻も早く封印を解かなきゃ」

マス爺にも自分にも言い聞かせるように、静かに高橋くんは言って、見猿、言わ猿、聞か猿のある場所にかけていった。

 

「そっちに行っちゃダメだ!」

涼平くんは、自分の叫び声で目を覚ました。夢……? それにしては生々しく、死んだという感覚も妙な説得力があった。

 

涼平くんはカーテンを開けた。空には黒く分厚い雲が広がっていた。仕事のやりすぎだろうか。もう3年もこんなことを続けている。枕元にあるタバコをとって、火をつけた。

 

電話が鳴る。煙を燻らせながら、画面を見ると高橋くんの彼女の吉岡さんからだった。蟹が街を襲ったあの事件で高橋くんが死んで、結局人類は蟹に屈することになった。

 

その日からじゃんけんは三竦みではなくなった。チョキを出せば勝ち。大きなハサミは岩をも砕く。世界のバランスは完全に崩れていた。

 

電話に出る。