Wednesdayの記憶/夢
その、嘲弄すら含んだ「こっち座るんじゃねえよ」という言葉が自分に向けられたものだった、と気づいたのは三人組のJKが去ってからしばらく後の事だった。
蛍光灯は相変わらず取り替えていなかった。経年劣化で床が隆起したウェンズディは、ハンバーガーショップというよりも場末のダイナーのように暗くて入りずらく、店員の士気も異様に低かった。
ウェンズディポテトとかなんとかいうやたら細長くてケチャップかけ放題のポテト以外の名物もなく、いまでも何を食べたのかの記憶はまったくない。席代としても高いなと思いながら、それでも他のチェーン店に入る気持ちになれなかった。
30歩歩けばマクドナルドもロッテリアもすき屋も松屋も吉野屋も富士そばもある、といった恵まれた繁華街でウェンズディなんかにくる人は「訳あり」だとしか思われなかった。
そういう時代があった。
その時代に女子高生をやっていたということが、どういう葛藤をもつのかよくわからない。 一般的な「高校生」を経験しなかった僕にとっては、誰もが通る青春の門は理解不可能な儀礼と悩みで埋め立てられた人工地で、そこは沈むのか浮かぶのか、地震はあるのかないのかもよくわからないままだ。
なるほど、たしかにガラガラの店内で、わざわざ女子高生のそばに、しかも二席離れたところに座ったのは男性的には失策だったのかもしれない。それでもわざわざ「近くによらないでほしい」ということを聞き取れないぐらいの独り言で、しかも三人でいうぐらいだから、なにかよほど気に障ることでもしたのだろうか、と今になって思い至った。
それからしばらくして、ウェンズディが撤退するという報道があった。もう閉店すると息も絶え絶えに記した、その最終日になってもウェンズディには客は来なかった。
そしてバーガーキングが来日し、またウェンズディが復活し、ハンバーガーが日常食として、そして高級食になっても、ハンバーガーショップには女子高生たちがたむろするだろう、と思った。
ウェンズディで僕は小説を読んでいた。『クール・アンド・ルーク』ではなかったが、アメリカ南部で、絶望と労働と疲労と、それを癒やしうるドラッグとセックスと暴力に明け暮れる小説だった。
「子供ってどうしたらいいと思う?」。そのフレーズは、その小説の中の言葉だったと思う。そうでなければ、その場の誰かが発した言葉だったはずだ。
……顔をあげる。
三人の女子高生たちは、疲れ切った背中でウェンズディを出ていくところだった。背中まで垂れる黒髪を乱暴にかきあげながら、なにかに対して諦念を投げつけるように「ばかどもめ」とつぶやいて、店内より明るい夜の帰路に飲み込まれていった。
性欲を掻き立てないようにと配慮された、軍服を改変した高校の制服は、彼女たちにとっては囚人服のようなものだったのか、開放を意味する革命服だったのかは最後までわからなかった。
潰れてなくなるその日。僕は深夜のウェンズディで、ポテトとコーラを頼んでいた。知り合いの姿を見かけた。その人は、『アブロサム! アブロサム!』という、アメリカ南部の絶望と貧困と、暴力を描いた小説を悲しそうな表情を貼り付けたままで読んでいた。その悲しみの理由を、僕はたしかそのときまでは知っていたはずだった。
やあ、と声をかけるべきかどうか悩んでいた。わからなかった。
「こっち来るんじゃねえよ!」と怒られるのではないか、怖かったのだ。でも、そのあとどうしたのか、どうすればよかったのか、どうしても思い出せなかった。
覚えているのは、結局最後まで取り替えてくれなかった蛍光灯の下の暗いスペースで、飲みかけのコーヒーと、その横に積まれた小さな二冊の文庫本の姿だけだった。最後の明かりが消えるまで、僕はその二冊の文庫本が積まれたテーブルをじいっと見つめていたのだった。
もし、そこにいまの僕がいたら「ウェンズディは、また来日するよ。しかもなんかオシャレになっておしゃれなお店をオープンする! 床はもちろん歪んでない」と気持ち悪いの早口で話すだろうと思う。
その機会があれば、バーガーキングがやってきて、ウェンズディもまたやってきて、ハンバーガーショップでお酒も飲めるような日がきたことを、伝えたかった。
(たたた)