やだんこ!

共通点があったりなかったりする者同士で更新するWeb同人誌です

いーから皆舞城王太郎とか読んでみろって。

舞城王太郎を知っていますか? 1973年に福井県今庄市で生まれたこと以外は、パーソナルなことがなにも分かってない覆面作家です。4度の芥川賞の候補となり、131回の「好き好き大好き超愛してる」では、山田詠美池澤夏樹から推される一方、石原慎太郎からはタイトルを見ただけでうんざりしたと評されたなど、賛否の別れやすい小説家です。

 
しかし、まあわざわざ取り上げるぐらいだから分かってもらえると思うけど、ぼくは「賛」側の人間です。ふとした時に舞城が読みたくなります。このブログはAmazonとの癒着しているので、もちろんkindleで読みたい。ほいで、検索したところ、kindleで読める舞城作品を全部買うと、なんと3万弱も掛かる!! ぼくの時給は5京ですが、なるべくなら日々の出費は抑えたい。

 
なので、自分が本当にお気に入りな作品に絞っていったところ、全5作品になったのでこれはブログで紹介するのにちょうどいい! 読書が好き、石原慎太郎が嫌い、ラノベぽくても大丈夫、そんなあなたにも、そうでない君にも、おれが舞城を教えてやる!!!

 
さて、1つ目はこれ。

 

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 


この作品でメフィスト賞を取り、デビューしました。福井県西暁町という架空の田舎町で起きた連続主婦殴打生き埋め事件に自分の母親が巻き込まれたことをきっかけに、サンディエゴで腕利きの外科医として活躍していた奈津川四郎が事件を調査するという物語。ミステリとハードボイルドを混ぜたような作品です。

 
舞城の特徴である極端に改行が少ない、脳内の思考でリズムを刻むような文体はこの頃からすでに確立しています。

 
舞城作品で何度も舞台となる西暁町はともかく「奈津川」「ルンババ12」など後々の作品でも登場するので、その辺を留意して読むといいかも知れません。

 

次!

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 


前述の芥川賞候補になった作品。打って変わって恋愛小説です。小説家の主人公と、その恋人で故人の柿緒の物語と、全く別の世界のSF的な物語が交互に綴られるというちょっと変わった形式。

 

これが泣けるんす! 死んでいったものに対して、残された人間はどう生きるのか。愛とは。誠実さとは。そんなことが書かれているようないないような。いいから読め!

 

kindleと文庫版にはカップリングの「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」が載っていないので注意してください。「ドリルホール~」はやりたいことを描くだけ描いて、そのまま打ち切りになってしまった少年漫画みたいな近距離パワー型の小説。今回は紹介していない作品でも、そういうのはちょこちょこあって、いい加減にしろ舞城王太郎と思うが、許す。すべて許す。

 

3作目!

 

みんな元気。

みんな元気。

 
スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)

スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)

 

 
短編集。kindle、文庫版では「みんな元気。」と「スクールアタックシンドローム」の2冊に分けられました。何でだろ。両方薄いのに。

 

舞城の考える家族愛が詰まっています。あと、舞城を語る上で欠かせない要素である「バトルに近いコミュニケーション」や、映画的な演出を感じさせる描写も見逃せません。まあそれって「煙か土か~」にも言えることなんですけど、ミステリやハードボイルドというギミックが無い分、ストレートに感じられていい感じです。

 

まだまだいくぞ!

 

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 
ディスコ探偵水曜日(中)(新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日(中)(新潮文庫)

 
ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

 

 
いい加減にしろ! 長ぇーんじゃ!! とイラつくファンも多いと聞く、現時点で舞城王太郎最長の小説です。この時期、クソ長い小説が流行ってたんですが、それに乗ったか乗らずか、1000ページ超えてます。「煙か土か~」と同名の登場人物や、今回紹介していない作品のキャラも現れ、ミステリ、SF、暴力、愛といった重要ファクターもてんこ盛りで、前期舞城王太郎の集大成といっていいでしょう。

 

間違いなく面白いのだけど、これから読むのは1ミリもオススメできない、ある意味上級者向けの1作です。

 
最後!

淵の王 (新潮文庫)

淵の王 (新潮文庫)

 


先ほどの「ディスコ~」以降、徐々に作風にオカルトじみた要素が目立ち始めた舞城が本格的にホラーを書いた作品です。ぞくぞくする感じのホラー。「バトルのようなコミュニケーション」をしても分かり合えないなにかとは、超常的な存在そのものではないのか。以前から漠然とあった、舞城にとってのディスコミュニケーションを形にした作品かもしれません。 


本作、語り手がかなり独特で、主人公を見守る誰の目線で物語が進んでいきます。一人称なのに三人称みたいな。客観的でありながら主観的という絶妙なバランスが取れた描写と、淡々と一定のスピードで怖くなっていく展開に震えろ~~~♡♡♡♡ 


以上! これさえ読めば、君も舞城通! あーでも、とにかく走りまくる「成雄シリーズ」とか、トリビュート、あるいはコラボ作品なのにまごう事なき舞城作品である、「九十九十九」「JORGE JOESTAR」とか、おれが舞城と出会った作品ゆえに思い入れのある「阿修羅ガール」とか、他にも面白い作品はいっぱいあります。ぜひぜひ読んでみてください。初心者には「好き好き大好き超愛してる」がおススメです!

 


(だっくる)

ねこに好かれたい

ねこに好かれたい。


夜中の散歩コースにねこが出る。飼われているねこなのか野良のねこなのかはわからない。首輪をしていないから野良なのかもしれない。

ねこは複数いる。たぶん三匹いる。三匹に共通していることは全くわたしになついてくれないことだ。


もうたぶん10回くらい会っているが、すぐにさっと逃げられてしまう。

わたしはそんなにねこの扱いに慣れているわけではないので、いっぱい触らせてほしいとまでは思わない。そんな贅沢は言わないので、ちょっと遠くから見られればいいのだ。それすらねこは許してくれない。身持ちの固いやつらだ!


猫に触ることのできる場所を一箇所知っている。猫カフェだ。猫がたくさんいて、入場料だけでは見向きもしてくれないけれど、有料のおやつササミを買うと猫がガンガン寄ってくるという重課金システムになっているおそろしい店だ。


しかしそれは猫だ。ねこではない。飼い慣らされた猫などねこではないのだ!!


いや別に猫でもいいんだけど、ねこも猫もかわいいから猫でもいいんだけど、食べ物を介在しないと成り立たない関係って不潔ではないですか?


と言ってから、猫対人の関係だけでなく、人間同士の恋愛的なものにも食べ物って絡んでくるよなと思った。デートってカフェとか遊園地とか映画とかだから(想像力が貧困で三つしか思いつかなくてすいません)どれも食べ物が売っている場所だ。

じゃあ別に不潔じゃない。訂正します。


でもその辺にいるねこに餌をあげるわけにはいかない。飼い主がいるかもしれないし、野良であっても誰かが餌の管理をしている可能性がある。


じゃあどうやったらねこはわたしを好いてくれるのだ!


というわけで、ねこに詳しい吉村さん(仮名)に聞いてみた。


ねこに詳しい吉村さん(仮名)によると、まず距離の取り方らしい。ほどほどの距離感で舌を鳴らしたりして興味を引くことだそうだ。

ほどほどの距離感まで持っていくには、うまいこと速くもなく遅くもない速度で近づくことらしい。


つまりちょうどいい感じでやるのが一番いいということだ。

それがわからないから! こちとら苦労しているのだ! 吉村(仮名)よ!


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ねこの話の途中ですが、合間に、いま気がついたことを挟みます。


好きな人のタイプって聞かれると困りませんか?

人間の特徴を一言で言いあらわせるわけがないし、好きになった人が好きな人なのだから、そのとき好きな人の特徴を言うしかない気がします。


いや、もしかして、それって当たり前なのかもしれないですね。

みんなそのとき好きな人の特徴を言うというのが当たり前で、身内の中では、ああ、あの人ね、なるほど、となるという楽しいやつだという可能性はないですか。

もしかしてそういうやつなんじゃないか?


わたしは昔よく恥ずかしくて「微生物」とか答えていたのですが、その文脈だとものすごいめんどくさいやつだなと思いました。


それだけです!!!


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吉村さんがあんまり役に立たなかったので、インターネットで調べたら二秒で結論が出ました。

https://nekochan.jp/cat/article/603

こうするといいそうです。

 

(きのこ)

『50回目のファーストキス』を観て、ハワイに住みたくなった話

たまにはブログっぽく映画の話でもしようと思います。

 

ハワイの映像に惹かれて足を運んだ映画、

50回目のファーストキス』は勇者ヨシヒコの福田監督が撮ったラブストーリーです。

 

短期記憶障害を題材にしながらもコミカルに仕上げている、

ハワイと長澤まさみの魅力があふれんばかりの作品。

あと山田孝之がイケメン役やってるの久しぶりに見た。

(数年前にダイヤモンドヘッドに登ったときの写真を引っ張り出してみた)

 

最近、歳のせいか映画館にいくと疲れてしまうことが多いのですが、

50回目のファーストキス』は監督流の笑いが挟まれていたおかげで、

ヨシヒコ好きの私は苦なく見ることができました。

キャストもいわゆる福田組なので、安心して見られる感じ。

 

そして観た人の70%くらいの人が感じると思うのですが、

とてつもなくハワイに住みたくなりました。

 

物心がつくまえにハワイにいくことが多かったためか、

ハワイに行くとなんだかホッとします。

社会人になってから久しぶりにハワイを訪れたとき、

その空気に「うわ、懐かしい」と思ったほどです。

 

特にワイキキの夜の雰囲気が幼いわたしには印象的だったようで、

オレンジ色の街灯の光のなかにヤシの木が並び、

ブランドショップやお土産店が賑わっている光景に、

ものすごいノスタルジアを感じました。

 

あと風の強いよく晴れた日の朝もハワイを思い出しますね。

 

幼馴染もハワイ大好きであっちで結婚式をあげたのですが、

式のあとに同じく「やっぱり住みたい」と考えたようで、

諸々調べたところ、その難易度の高さに落ち込んでいました。

 

「物価が高いのに仕事は少なく給料も安い」

というのが一番の難点らしいです。

 

そりゃ難しそうだな、と私は自分で調べもせずに受け売りで思いました。

 

こんなかんじで、どうやったらハワイに住むことができるのか?

いつか空からそんなチャンスが降ってこないかな、と思いつつ、

引き寄せの法則を信じてこんなブログを書いてみました。

 

あと長澤まさみになりたいな、と思いました。

おわり。

 

(紬)

Wednesdayの記憶/夢

 その、嘲弄すら含んだ「こっち座るんじゃねえよ」という言葉が自分に向けられたものだった、と気づいたのは三人組のJKが去ってからしばらく後の事だった。

 

 蛍光灯は相変わらず取り替えていなかった。経年劣化で床が隆起したウェンズディは、ハンバーガーショップというよりも場末のダイナーのように暗くて入りずらく、店員の士気も異様に低かった。

 

 ウェンズディポテトとかなんとかいうやたら細長くてケチャップかけ放題のポテト以外の名物もなく、いまでも何を食べたのかの記憶はまったくない。席代としても高いなと思いながら、それでも他のチェーン店に入る気持ちになれなかった。

 

 30歩歩けばマクドナルドもロッテリアすき屋松屋も吉野屋も富士そばもある、といった恵まれた繁華街でウェンズディなんかにくる人は「訳あり」だとしか思われなかった。

 

 そういう時代があった。

 

その時代に女子高生をやっていたということが、どういう葛藤をもつのかよくわからない。 一般的な「高校生」を経験しなかった僕にとっては、誰もが通る青春の門は理解不可能な儀礼と悩みで埋め立てられた人工地で、そこは沈むのか浮かぶのか、地震はあるのかないのかもよくわからないままだ。

 

 なるほど、たしかにガラガラの店内で、わざわざ女子高生のそばに、しかも二席離れたところに座ったのは男性的には失策だったのかもしれない。それでもわざわざ「近くによらないでほしい」ということを聞き取れないぐらいの独り言で、しかも三人でいうぐらいだから、なにかよほど気に障ることでもしたのだろうか、と今になって思い至った。

 

 それからしばらくして、ウェンズディが撤退するという報道があった。もう閉店すると息も絶え絶えに記した、その最終日になってもウェンズディには客は来なかった。

 

 そしてバーガーキングが来日し、またウェンズディが復活し、ハンバーガーが日常食として、そして高級食になっても、ハンバーガーショップには女子高生たちがたむろするだろう、と思った。

 

 ウェンズディで僕は小説を読んでいた。『クール・アンド・ルーク』ではなかったが、アメリカ南部で、絶望と労働と疲労と、それを癒やしうるドラッグとセックスと暴力に明け暮れる小説だった。

 

 「子供ってどうしたらいいと思う?」。そのフレーズは、その小説の中の言葉だったと思う。そうでなければ、その場の誰かが発した言葉だったはずだ。

 

 ……顔をあげる。

 

 三人の女子高生たちは、疲れ切った背中でウェンズディを出ていくところだった。背中まで垂れる黒髪を乱暴にかきあげながら、なにかに対して諦念を投げつけるように「ばかどもめ」とつぶやいて、店内より明るい夜の帰路に飲み込まれていった。

 

 性欲を掻き立てないようにと配慮された、軍服を改変した高校の制服は、彼女たちにとっては囚人服のようなものだったのか、開放を意味する革命服だったのかは最後までわからなかった。

 

 潰れてなくなるその日。僕は深夜のウェンズディで、ポテトとコーラを頼んでいた。知り合いの姿を見かけた。その人は、『アブロサム! アブロサム!』という、アメリカ南部の絶望と貧困と、暴力を描いた小説を悲しそうな表情を貼り付けたままで読んでいた。その悲しみの理由を、僕はたしかそのときまでは知っていたはずだった。

 

 やあ、と声をかけるべきかどうか悩んでいた。わからなかった。

 

 「こっち来るんじゃねえよ!」と怒られるのではないか、怖かったのだ。でも、そのあとどうしたのか、どうすればよかったのか、どうしても思い出せなかった。

 

 覚えているのは、結局最後まで取り替えてくれなかった蛍光灯の下の暗いスペースで、飲みかけのコーヒーと、その横に積まれた小さな二冊の文庫本の姿だけだった。最後の明かりが消えるまで、僕はその二冊の文庫本が積まれたテーブルをじいっと見つめていたのだった。

 

 もし、そこにいまの僕がいたら「ウェンズディは、また来日するよ。しかもなんかオシャレになっておしゃれなお店をオープンする! 床はもちろん歪んでない」と気持ち悪いの早口で話すだろうと思う。

 

 その機会があれば、バーガーキングがやってきて、ウェンズディもまたやってきて、ハンバーガーショップでお酒も飲めるような日がきたことを、伝えたかった。

 

(たたた)

天の光はすべてラーメン二郎

都心にあるラーメン二郎で頼んだ普通のラーメンは、ミニラーメンをそのまま大きくした形をしていました。その皿はまるで鍋のように大きく、山と盛られたモヤシとキャベツに阻まれて麺も油層も、真っ黒いスープも見えませんでした。

 

隣に座った友人は、メガネをくいっと掲げながら「ここでは人間は生きられない……己の野生を開放しないことにはな!」と言い、ゆっくりと、箸をモヤシの中へと沈めていきます。

 

僕も見よう見まねで、まずモヤシに手をつけました。

 

無味無臭。本当にただのモヤシです。これをしばらく羊のように食べてから、やっと底から麺が現れるのです。

 

麺を一口食べた瞬間に、もうお腹いっぱいでした。麺を一口食べる。それだけで僕はカフェランチで食べるような、小さなハンバーガーを食べたあとのような膨満感があります。

 

やばい、と思いました。

 

 

それからのことは記憶にありません。

 

僕は打ちのめされた敗残者のような、というよりも敗残者そのものの気持ちで道路にへたりこんでいました。

 

友人に、もうラーメン二郎は食べたくないと言いました。

 

そのときに友人が述べたのが、その、「ラーメン二郎3回理論」というものでした。ラーメン二郎は一回目は衝撃とともに、二回目は暴力とともに、三回目で、その魅力に気づくことができるかもしれないという理論です。

 

僕はもう二回目まで使い切ってしまったのです。

 

数日たってから、もうちょっと体調がよくなったり、元気になったり、食欲が亢進することがあれば、ラーメン二郎を食べられるようになるかもしれないと思い直しました。

 

ですが、それから何年かしてから、食欲は減る一方であることに気が付きます。

 

白髪は増える一方。体重は落ちなくなっていきます。

 

ラーメン二郎の油と炭水化物と、火山のような熱量を受け止める気力を失ってしまったのだと、思います。

 

きっともう一度行ってしまえば、最後の一回をラーメン二郎を愛する前に、憎しみで使い切ってしまう。横暴そのものを麺にしたあのラーメンの魅力を知る前に。

 

ジロリアンたちの無限の食欲と敬愛を知る前に。

 

ラーメン二郎のあの疾風怒濤を受けとめる日はきっと来ないのだろうなと思い、いつか成りたかったジロリアンたちは、宇宙へと飛び立つ戦士たちのように見えるのでした。

 

自分は敗残した、惨めな宇宙飛行士なのでした。

 

ラーメン二郎に向かっていく人たちを見ながら、ぼくは『天の光はすべて星』という文庫本をそっとバックにしまったのです。

 

(たたた)

ラーメン二郎を嫌いにならないでください

ラーメン二郎

 

 誰でも一度は名前をきいたことがあることでしょう。

 

 ラーメン二郎だけを毎日食べている人もいるといいます。麻薬を匹敵するほどの中毒性と快楽、二郎の事以外何も考えられなくなるほどの恋慕と愛着。店舗ごとに異なるラーメンを行使する超越的な味覚・感覚的暴力。ラーメン二郎愛する人達は、畏怖を込めて、こう呼ばれます。

 

 ジロリアン、と。

 

 かく言う僕も、実は二度ほど、ラーメン二郎に足を踏み入れたことがあります。ですが、三回目に足を踏み入れることができないのです。

 

 むかしむかし、ある人に「二郎にいかない男子はだめだ」という話をされたことがありました。それは飲み会の場でのささやかな冗談だったのですが、若かりし頃のぼくは、そうか、と得心し、二郎に向かったのです。男になるためでした。

 

 二郎は混んでおり、並んでいました。誰も一言も話をしませんでした。床は脂ぎって滑りやすく、壁にはなぜか定期券がぎっしりと貼り付けられていました。店主は無愛想で、ラーメンを恐ろしい速さで量産していきます。女性の店員もいました。女性は無表情で真空パックからあけたばかりのもやしをラーメン皿に打ち込んでいきます。

 

 修行僧のような表情でラーメンをすする男たち……。そこは、昭和初期の工場でした。

 

 食券機のまえと、店に入る前の注意に「初めてはいる方はミニラーメン以外を頼まないようにしてください」という張り紙がありました。面白半分で「ラーメン大盛りニンニクマシマシ」などの魔法を使うことは許されないのです。

 

 私はなぞの液体の粘性によって、なぜかぬるぬるする椅子に座りました。そして、少しだけ待ちました。やってきたミニラーメンは小さくありませんでした。むしろ普通のお店の超盛りぐらいありました。

 

 濃厚を極める醤油味、塩の塊すら入っていそうな強烈な味わいのスープの上には油の層があります。麺は極太ですが、その麺に辿り着く前に、ニンニク・もやし・もやし・もやし・もやし・キャベツ・もやしで構築された暴力そのものを攻略しなければなりません。

 

 そして、油と漆黒のその中には死してなお豚であったことを主張するチャーシューらしき肉塊が極悪な脂身を保ち塩化物と化して魔神のように鎮座。もやしやキャベツのレギオンはまるで私を救済する天使。その頭上に輝く輪のようにかがやいてみえてくるのです。

 

 僕はミニラーメンを完食できませんでした。食べ始めて5口目ぐらいで絶望が口の中に舞い込んできました。50口目で半分ほどまで行きましたが、それまでに僕は人間としての尊厳をいくども失いかけました。

 

 そのあと、ジロリアンはいいました。「気に入らなかったか」と。

 

 僕は「無理」とだけ言いました。ジロリアンは悲しい顔をしました。「二郎のことを嫌いになるなら、せめて3回食べてほしい。一度目は衝撃だろうが、二度目は既知のものとなる。ラーメン二郎も同じだ。三回食べてだめだったら、諦めていい」

 

 僕はそれからしばらくして、悲しいことを乗り越えるために友人たちと二郎にいきました。友人は「ラーメン普通盛り野菜マシマシにんにくマシで」と頼みました。僕は普通盛りを頼みました。

 

 普通盛りは、我々が信じる普通概念など、所詮は相対的な概念に過ぎないこと、その相対性は状況や文化によって容易に差異化されてしまうか弱いものでしかないことを示していました。それは皿ではなく、もはや鍋でした。

 

 僕はでも、ラーメン二郎を嫌いになりたくなかったのです。ひっしでラーメンを食べたのです。

 

つづく

(たたた)

コージーコーナーで朝食を。

コージーコーナーという名に聞き覚えはありませんか?

 

僕がはじめて「コージーコーナー」の名前を意識したのは『フルメタル・パニック!』の何巻目だか忘れてしまったけれど、軟弱を極めるラグビー部が相良宗介軍曹の手によって海兵隊員のような鬼に変わってしまう回を読んだときのことでした。

 

その時にラグビー部の部員が、お茶をいれて「いま、駅前のコージーコーナーにケーキを買いに行かせています~」みたいなことを言っていて「おお?」と思ったのです。

 

駅前のコージーコーナーというのは、当時の僕にとっては謎のフレーズであった。例でいえばなんだろう。武家伝奏とか細川家被官とか、守護階層とか讃岐郡三沢村における特殊婚姻と村落構造とか、それぐらい謎に満ちたフレーズで、結局武家伝奏のことはわかっても山科家家職のことはわからないし、久我家の古文書があっても荘園管理のことはわからない、といった具合でした。

 

コージーコーナーが何かわかったのは、都心にでた某駅で「おみやげ」を探していた時でした。

 

だっさい80年代風の極太文字で「コージーコーナー」と書かれ、手前には「銀座」ととってつけたような楷書体で書かれている!

 この雰囲気はあれだ「銀座アスター」に似ている、と瞬間的に思ったのです。

 

そして、見た。そこに並ぶケーキの数々を。

 

本当に売れるのか、こんなに、人は、ケーキを食べるのか?

 

というか、ケーキを食べるスペースは、ないのか?

 

こんなに、都心の駅前でケーキを買って満員電車に乗る人がいるのか?

 

僕が同時にいくつもの疑問を感じ、しかし華やかできらびやかな、バブル期の清里とか巨大ショッピングモールの開発で持ち直した軽井沢とかの、過去のおしゃれを全身に浴びたのです。

 

コージーコーナーの、ケーキを食べたい!!

 

僕はその時つよく思った。

 

強く思ったが、コージーコーナーのケーキ、そしてコージーコーナーは「男が一人で入り、ありがねの大半をはたいてケーキを買い、公園で一人で食べる」といった用途を想定していない店構えをしていた。

 

そしてそこに居並ぶ人たちも、明らかに一人で食べる分しか買わないといった消費行動を実行するような人はいなかった。

 

その駅から自宅まで2時間かかった。2時間かけて還ったさきで、それでもなおこのコージーコーナーへのあこがれ、そしてケーキの物理的な形を維持したままの運搬ができるとは思えなかった。絶望とは世界の終わりをいう。そして断念した。

 

またこんどにしよう・・・・・・。

 

・・・・・・それから結局、その駅に赴くことはなかった。今もなく、これからもないと思う。

 

もうその駅のことも、その駅で見かけたコージーコーナーも、そしていつか来るべき親しい友人たちと食べるコージーコーナーのケーキのことも、風のようにすべて砂塵に溶ける砂糖のように日々の多忙へとはかなく紛れ込んでいくのでした。

 

(たたた)